まるで 蜜だ。濃密で純度の高い甘い香りは虫を誘うばかりか己の全てを貪ってくれと懇願しているようにも想える。
平和ボケしているのか何のなのか。刀を交えての対峙は、本来ならば血生臭さを予感させるのだが今日に限っては甘ったるい匂いが鼻腔を擽りどうにも頂けない。緊迫した雰囲気とは懸け離れた甘い香りが高杉の悪意を根こそぎ削ぎ落とし、久々の対峙だと云うのに緊張感に欠けるばかりか調子を狂わせるのだから研ぎ澄まされていた筈の神経が鈍るのもいたしかないこと で。構えを解き刀を仕舞う高杉の鮮麗された仕草に近藤は不可解そうな顔をするが、「お前から漂う不自然なまでの甘ったるい香りの方がよほど不可解だ」と寸でのところで零れ出そうになった言葉をどうにか飲み込み、らしくもないと心の中で吐き捨てる。いつだって近藤との対峙は高杉を鈍らせる。その一挙一動が信念を揺るがし、その太刀筋がこれでもかと心臓を振るわせるのだ。認めたくはないが、まるで逢瀬のようだと心待ちにしている自分がいることを高杉は随分と前から気づいていた。近藤の前ではいつだって自分であることが出来ない。自分というものが分からないばかりか見えなくもなる。挙句の果てにはあの男を欲してしまうのだからどうしようにもない。蜜であり、時として生傷の上に出来た瘡蓋のような男だ。誰よりも汚れているようでいて、誰よりも潔白であり続ける恐ろしい男。完膚なきまでに汚してみたいと願いながら、いつまでもその白さを捨てないでいて欲しいと願う矛盾を抱かせる男。どこかあの人に似ていながら敵であり続ける 男。高杉の右目から視線を外さずに鞘に仕舞われた刀に目を配り「何故 構えを解く?」と、問い掛ける。こんな場面で迷うだなんてどこまで愚直すぎる。捕まえるにはこれほどの好条件はないだろうにそれでも卑怯なまねをよしとしない真っ直ぐで馬鹿な男。そんな馬鹿だから好ましいと想えるのだろうか。分からないし分かりたいとも想わないが、それでも今日は機嫌がいいのだと甘い匂いを撒き散らす近藤に一歩、また一歩と近づき距離をつめる。剣先は向けど迷いでぶれている様がありありと見て取れ、困惑と葛藤しているであろう心情を読み取ることは容易くおかしさに笑みすら込み上げる。そんな甘い香りを不用意に撒き散らせるばかりか無防備なまでに真っ直ぐと信じる。近藤、お前は甘い香りが誘う誘惑を知らないのか?そういえばと想う。今日は十四日。行きがけにまた子が包みを手渡してきたなと、興味はないのですっかりと忘れていたがおそらくあれはチョコレートか何かだろうと推測する。ということは、近藤にしみついたこの甘さの元もそれであるのだろう。ゴリラのくせして随分と色男じゃないかとからかい半分に軽口を叩きたくなったが、それでもと解せないことが瞬時に浮き彫りにされる。果たしてチョコを貰っただけで食しただけでこんなにも甘い香りが染み付くのだろうかということだ。長時間身体にチョコレートを塗りたくったのか、あるいは同じく長時間チョコレート作りに精を出していたのかでもしなければ、ここまで甘い匂いが身に纏うことも出来ないだろう(前者にしろ後者にしろそんな馬鹿なことをこの男なら遣りかねないと否定できないところがまた 誰も彼もを惹きつけて病まないのかもしれないが)兎にも角にも甘い日なのだそうだ。距離を近づけた分まで後ずさってはいるがそれだって限界は見えているし、それ以前に迷いの生じた者ほど扱い易いものはない。ならば甘い近藤を喰べるのも一理であろう。甘い香りに包まれたお前の体臭を吸って、全身を嘗め回して 愛でて。嫌がっても逃がしてなどやるつもりはない。そもそもそんな甘い香りで誘っているのはお前だろう?おいおい 随分と顔色が悪いな近藤?それでも逃がしてやるつもりはないから心配するな。そんなに誘うのなら 近藤 今すぐにでも貪ってやろうか?





バレンタインデー回想録(20100218)