近藤は、誰に祈るのだろう? 信頼という名の重圧を一心に受ける男は誰に救われるのだろうかと銀時は考える。抱え込める以上のものを抱えて凛と真っ直ぐであり続けることは、期待が高まれば高まるほどに業に足をすくわれ沈んでゆく血路しか見出せないことを意味しているにも関わらず拾うことをやめないのだ。結局のこと掻き集めるだけ掻き集めたまま不要なものですら「大切だ」と云って笑うどうしようにもないお人よしは捨てることが出来ずにいる。自ら自身を自滅へと追いやる馬鹿は馬鹿と呼ばれることを喜ぶ。それどころか誰かの為の馬鹿でありたいと胸を張るのだから、いっそ救えない。無限に見えて要領の少ない懐は既にパンク寸前であるにも関わらず世の中の善悪ですら理由をつけては背負い込むのだろう。助けを求める声に躊躇なくその手を差し出すのだろう。馬鹿の風上にすらおけぬほどのどうしようにもない馬鹿である近藤という名のゴリラはそういう男なのだ。
銀時は時々祈りを捧げる凛とした背筋を見つめながら、かつての誰かのように背負いながら戦い続ける近藤の澄んだ瞳に映る世界は美しいのだろうかと思案する。憧憬交じりの視線の先には都合のいいように映し出された美化した姿が映っているのかもしれないし、もしかしたら銀時が認めたくないだけであって真っ黒に染まっているのかもしれない。それでも、心の奥底ではそんな男が祈りを捧げる世界は美しいものであればいいのにと願い続けている。もしかしたら、どこかあの人に似た美しい志を最後の最期まで見届けたいが故の欲目があるのかもしれない が。
羨望世界(20100709)
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