傷ついていないと云えば嘘になる。未だにあの人の裏切りを受け入れることが出来なければ、いっそ狂信的とでも云えばよいのか。盲目なままにあの人を見つめ続けたあの頃のように胸を張って「信じている」とも云いきれない。それで、も。それでもあの人が与えてくれた傷が、純粋に嬉しかったのだ。右目の傷跡のように目に見えるものではないが俺だけが知る俺だけの、傷。何も与えてくれなかったあの人が刻みこんだ唯一のそれは俺の中で静かに息づき、癒えることなく膿み続けやがては臓腑を腐敗させるのだろう。あの人が知らないまま、あの人の唱えた正義が俺を 殺すのだ。
あの日から幾度も繰り返し見る夢の詳細を鮮明に想い描くことが出来る。擦り切れるほどに繰り返す記憶の残像に恋焦がれ、どうしようにもない衝動に幾度心臓が悲鳴をあげたしれない。夢の中で、あの人から与えられた毒に倒れた俺をあの人は抱きしめている。離さないで、置いていかないでと泣いて懇願する俺を抱きしめ「馬鹿な子だ ね」と微笑むあの人の華奢で美しい造形をした指先が俺の傷に触れひとつに溶け合う。なんという、光悦だろうか。傷が膿んで生まれる願い。求めるのはいつでもただ 一人。あの人以外の何を願えと云うのだろう。あの人のいない世界をひとり彷徨えというのならば、例え一瞬で終わる幸福であってもそれを手に入れたいと希う、そんな。夢の終わりような現実の訪れを静かに静かに 待ち続けている。
幸福の 降伏(20101007)
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