「お前を、守るよ」、と。良守のお決まりの台詞を耳にするたびに、時音は、一体あんたは何の為の戦っているの、と、どうして烏森じゃなく私なんかを率先して守ろうとするの、と、問いただしたい衝動に駆られるのは、忠誠を誓うかのようなその言葉に対して、良守が怖いくらいに真剣なことを知っているからだ。『守る』だの『守られる』だのと。使命の為に戦い続ける自分達に、そんな生温い理屈は意味を持たないのだと、口を酸っぱくするほどに云い聞かせても、一向に納得しない良守を説き伏せる方法はないものかと思案の日々が続くわけだが、幾度も続けた門禅答を繰り返す内に、もしかしたら一番無意味なことをしているのは自分の方なのかもしれないと時音は考えを改めるようになった。(良守という男は、誰に何を云われようが、一度決めたことを簡単に破棄するような男ではないのだ。)烏森ではなく、時音を『守る』ことに意味を見出すこと自体が、そもそもおかしいのだとどうして良守は気づかないのだろう?(いや、馬鹿であっても良守は、愚かでは、ない。その矛盾さがいかに自分自身を貶めているかを理解して、その上で、誰かの為に自分を犠牲にすることが最もな解決法だと勘違いをしているのだ。)前提から間違っている時点で、高いリスクを背負うことを意味しているからこそ、あまりにも無謀すぎる良守が歯痒いのだ。
今日もまた、時音を庇って、あるいは時音を守ろうとして、傷だらけの良守は「痛くないよ」と笑うのだろう。
時音を『守る』ためにつく泣きたいくらいに優しい嘘が、どれほどまでに時音自身を傷つけるのか。

それから得る、慟哭、なんて。
『守る』ことに囚われ続ける良守には、きっと、一生かかっても 理解なんて出来ないままなのだ。





自己犠牲(またの名を、矛盾と呼びます。)(20091221)