項垂れた男が雨に打たれている。そんな男を遠くから見つめる女が ひとり。女は、男が大切な人を失ったことを人伝に聞いたことを想い出していた。その男もまた、自分自身の命を落とす危機にあったのだそうだ。「あったのだそうだ」とは随分と他人事のように聞こえるが、その場にいなかった女には男に何が起きたのか詳細は知らない。現場にいた弟に大まかな成り行きを聞き、なんとなく察した程度であって、女にとっての現実は真実を大きく湾曲した事実が世間を賑わせたことに毛の生えた程度の出来事だ。その事件では、真撰組、攘夷志士双方に多くの殺傷者が出たとのことで、偉丈夫を誇る男もまた傷を負ったのだという。肉体的に残る傷ではない。けれども、おそらく。その傷と痛みは男の心の奥深くに刻み込まれたであろう、と。淡々と語る弟の姿もまた、深い哀しみと目に見えぬ傷を背負っているかのようだった。
雨は音を吸い取ってしまうのね。人形のように微動だしない男の背を見つめながらぼんやりと思考の海を漂っていた女は唐突にそんなことを想った。雨粒が音を吸い取ってる。でも、それ以外のものは消し去ってはくれない。溢れだして零れるだけ。ならば、雨粒は一体何を洗い流そうとしているのだろう。一体男は何を洗い流そうとしているのだろう。洗い流したいと願っているのだろう。ただ雨に打たれ続けるその行為に何の意味があるのだろう。飄々とした掴みどころのない男はどんな顔をしているのだろう。嘆き悔んでいるのか。あるいは、恐ろしいほどに澄んだ優しい瞳をしているのだろうか。墓前を前に項垂れ続ける後ろ姿にいつものような覇気はない。女が男を気にかける義理はない。倖わいにも男は女の存在に気づいていないようであるのだから、何も見なかった振りをして無視をすればいい。通り過ぎればいい。なのに足が地に縫いつけられたように動かない。どうして、去りがたいなどと 想ってしまうのだろう。
静寂を描いたような世界に男と女はいた。男は項垂れ雨に打たれ女はそんな男をただ 見つめている。
静寂(20120118)
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