泣けなくなった、お兄ちゃん。弱音を吐けなくなった、お兄ちゃん。千歳さんに囚われ続ける、お兄ちゃん。
最近、お兄ちゃんの笑った顔を見ていない。ずっと、何かを考え込んでいて。嗚呼、あの人の右目のことを想っているのねと察してしまえるくらいにお兄ちゃんが奪った右目の呪縛は、根が 深い。

あの頃のお兄ちゃんと千歳さんは、二人きりで生きていた。ううん。二人分の世界しか知らなかったから、二人でしか生きられなかったんだと想う。だから、あんな悲劇を呼び寄せてしまったのだろうか。だから、壊れる選択しか選べなかったのだろうか、と。私は彼等の辿るべき違う道を模索しようとするのだけれども、哀しいことにいつだって結末は変わらない。どこで道を踏み外してしまったのだろう?何が過ちだったのだろう?誰もが羨むほどに輝いていた、お兄ちゃんと千歳さん。喧嘩もテニスも負け知らずで、いつの間にか『二強』だなんて特別な名前で呼ばれた、選ばれた、お兄ちゃんと千歳さん。声をかけることさえ憚られるような独特の空間で呼吸をしていた二人の世界は完結していて、とても、美しかった。まるで、金魚蜂の中で踊る二匹の金魚みたいに。美しい時間と美しい空間でしか生きられない、短命な、金魚みたいに。金色と黒のコントラストが眩しいのだと何度瞳を細めたかなんてわからないくらいに憧れる人はたくさんいて、傍から彼等を見ていた私もまた、そんな二人が酷く羨ましくてならなかったのに。なのに。一瞬の崩壊で、全てが夢と成り 果てる。

ミンミンミンミンミン
鬱陶しい蝉の鳴き声は、虚無感を生み出すにはもってこいの演出だと想うのは一点を見つめたまま微動だしないお兄ちゃんの横顔に疲労感が色濃く滲んで見えるからなのかもしれない。「再びラケットを握った」と。千歳さんから連絡をもらってから、お兄ちゃんは何かに取り付かれたように考え事をする時間が増えた。理由は知っている。あの人の、右目。お兄ちゃんが千歳さんから奪った右目とテニスについて。一体、何を恐れ不安を感じているのか。考えてもきりがないことぐらい理解している筈なのに、考えずにはいられないのだろう。お兄ちゃんの頭を覗けるのなら、きっと、寸分の隙間もないくらいに千歳さんで埋め尽くされている筈だ。
ミンミンミンミンミン
あと、数日もすれば命を終えてしまう蝉のそれは、遣る瀬無さを覚える一方で鮮烈なまでに美しいと想えるのは、まるで、あの日の二人を錯覚させるからなのだろうか。蓋をした筈のそれから次から次へと悲しい思い出が溢れてくるから、杏は、夏が、蝉が、あまり好きにはなれない。
ミンミンミンミンミンミンミンミン
うだるような暑さはしばらくすれば終わるのに、お兄ちゃんの苦悩はきっと一生消えない。例え、千歳さんから許しを得ても、お兄ちゃんがお兄ちゃんを赦せない限り、永遠と、あの日をループし続ける。まさに、無間地獄。それに浸ることが殉教だというのだろうか?それで、お兄ちゃんの罪は報われるとでもいうの だろうか?
ミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミン
蝉が鳴くたびに、杏は美しかったあの夏の日を想い出して、今日の日のことも想い出すのだろう。膿んだ傷に塩をすり込む様な痛々しさを忘れることなんて出来ないのだろう。頭の中で、二匹の金魚が美しい弧を描きながら泳いでいる。眩くて、綺麗なそれをかつてのような気安さで永遠とは呼べない。羨望は、出来ない。
ミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミン
杏が愛した二匹の金魚と「さようなら」をするように、お兄ちゃんが、ゆっくりと 瞬きをする。
ミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミン

なんて哀しい、真夏の夜の 夢。





あなたの金魚(20100101)