「優しい方でした」、と。まるで、幼子に夢物語を語りかけるような柔らな男の声色は、穏やかな旋律の中に決して聞き逃すことの出来ない艶やかな音色を含んでる。それは、確かについ最近耳にした音。肌で感じた艶かしさと琴線を揺すぶるような安らぎに聞き惚れ、話の途中でありながら想わず耳を研ぎ澄ます万斉だったがどこでその音に触れたのかを一向に想いだせずにいる。そんな音の在り処に意識を奪われている万斉を別段気にするわけでもなく「とても、優しい方でした」と、言葉を重ねる男のそれは赤子を眠りへと誘う子守唄のような自愛に満ち、万斉のそれに心地よい美しき波紋が広がる。男は、伊藤の動向を探る為に間者として真撰組に潜り込ませた高杉の部下である。かつての戦争に参加した経歴を持つ随分と有能な男で、涼やかな外見に似合わぬ剣の使い手でありながら口が堅い。そして何より、その有能さを買われ珍しいことに高杉に重宝される存在であると同時に、表と裏の顔を使い分ける万斉の補佐役でもあった。手放しに人を褒めるような男ではないことはそれなりの付き合いから理解しているが、その男が普段はきつめに結んだ口元を僅かに緩ませながら「あともう少し計画の実行が遅ければ、私は此処に戻ってこれなかったかも知れません」などと云うのだから、大抵のことならば動じない万斉ではあるが今回ばかりは驚きのあまり開いた口が塞がらずにいる。いつもは几帳面な一面しか見せぬ同志の珍しい痴態を見て「おかしいですか?」と、くすりと笑いを含んだ声色は砂糖菓子のように甘い。こんな声色も出せるのかとはじめて耳にするそれに聞き惚れ酷く調子を狂わされているなと苦い笑みを浮かべることで話の続きを促すと、心得たと云わんばかりに一呼吸おいた男は「噂に違わず、あの人は太陽のような方でしたよ。」と言葉を紡ぐ。男の云う、あの人。因縁のある相手。今回の標的だった男。『真撰組局長』の肩書きを持つ幕府の犬。近藤勲。半ば公然の噂では、真撰組なる組織は幕府ではなく近藤の為だけに忠誠を誓った輩により形成されているのだとか何だとか。人徳があり人望の篤い男。このご時勢に逆行している男気溢れる近藤勲という男は、志士の間でも人気が高く暗殺の対象でありながらそれを惜しむ声さえ聞く有様なのだ。万斉は繰り返すように『近藤勲』と心の中で名を唱える。本人は無自覚なのだろうが、滅多に感情を表に出さない男がその名を口にするたびに想い出したように柔らかく微笑む意味を理解する為に、もう一度と名を唱えれば耳を掠める甘い旋律に全身を駆け巡り唐突に、理解する。(嗚呼、なんと甘美な。なんと、美しい。男も、伊藤も、副長である土方も聞き惚れた音色は単調であるが故に繊細さが際立ち、美しさに胸を打たれる。)
「信頼は捨てる為にあるのだと想っていましたが、あの人にかかれば信頼も裏切りも意味を成さない。あの人は難しい言葉を並べません。ただ『信じる』だけ。『信じる』ことに理由は必要ないと云い切ったあの人の高潔さに、それを体現する器の大きさに身震いが止まりませんでしたよ。信じてみたくなりました。もう一度、誰かを何かを。守りたいとあの人ならば信じられると想ってしまったのですよ、この私が。とても恐ろしくなりましたよ。確かに、あの人は優しい人でした。そして、その優しさ故に残酷な人でもある。信頼されることに私は一生慣れないのでしょうね。ましてや誰かを容易く信じるなど。なのに敵として対峙したとして、あの人は、変わらずに私を信じるでしょう。笑いながら、手を、差し伸べるのでしょう。」あの場所は毒です。ましてや、あの人の為に捨てられる命があることが羨ましいなど、と。男の零す言葉の甘さとは裏腹なあまりにも不似合いな殺伐とした空間は、万斉が聞き惚れた旋律でさえも泡沫の夢幻であるかのように溶かし朧に霞んで消える。もう一度と、手探りしてもあの音は万斉の手を擦り抜けてしまうのだろう。

もがけばもがくほどに欲すれば欲するほどに遠のく意味を、知っているだろうか。
憧憬は、羨望の固まりでもある。故に、眩いからこそいつまでたっても捕まえられないのだ。





煌く(20100106)