「大人って、泣かなくなることを云うんだって銀ちゃん云ってたアル。銀ちゃんもババァも姉御もマダオも、私の周りの大人は見んな滅多に泣かないのにどうしてゴリラは泣くアル?ゴリラは大人か?」と、少しでも大人ぶろうと背伸びをする少女の言の葉はいつもに増して辛辣で、近藤のなけなしのプライドだとか見栄といったものを、ものの見事に豪快に抉ったが大きな瞳をくりりと見開く様が愛らしくて憎めない。(総梧もそうだったけど、これくらいの年頃の子は自分の選んだ選択が正しいと想ってしまうのかもしれないな。そんな盲目さが愛しいなぁ。)事実、(近藤の自尊心は見事に凹んだが)大人だと胸を張れるのは図体のでかさだけで、精神面ではムラが多く青臭さや未熟さが抜けないでいるので少女の言葉はあながち間違いではない。そして、多分、これからも。少女の云う泣かなくなることを大人と定義するのであれば、近藤は永遠に子供でもなければ大人でもない中途半端な生き物のままなのだろうという自覚すらあるので笑うに笑えない状態でもあるのだが、それでもいいかなんて楽観的な自分自身にそれこそ嫌気がさすのも確かで。そんな自分を誤魔化すように(そんな所だけ大人なんだよな。人間って現金だ。)、少女の言葉の語尾を拾い「大人になりたいのか チャイナさんは?」と、問い掛ければ「わかんない」と拗ねたように眉を顰める姿が、何でも自分達の真似をして背伸びをしたがったあの頃の総梧と重なって懐かしいなぁと自然と頬が緩んでしまう。「ゴリラが微笑むだなんて気持ち悪いアル!」と、馬鹿にされたと誤解したのか。プイッとそっぽを向く(そんな所まで総梧にそっくりだ)少女の頬が気のせいかふっくらと赤く染まって愛らしい。少女が大人になれば、こんな風に交わす些細な遣り取りも懐かしい想い出となってしまうのだろう。何年後かに巡り来るであろうその日の訪れを、今日の日のように淋しいなぁと想える自分でありたいなと近藤は 想った。
完璧な大人なんていないよ(弱さを抱えているからこそ大人の振りが出来るんだよ)(20100107)
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