あの人の恋はいつも勘違いから始まっている。『自覚はある』のだそうだ。欲望に、快楽に、囁かれる甘い言の葉に、与えられる優しさに滅法弱い自覚はある。だからふとした瞬間にそれに触れたときコロリと参ってしまうのだ、と。はにかみながら言葉を形に変えるあの人は自分自身でもまた誘惑に弱い己の一面に困惑し、それが安易な惚れっぽさに繋がってしまうのだろうと分析する冷静さを持ち合わせていながら幾度となく同じ失敗を繰り返している。性分かあるいは、これはもう一種の性癖かなんかじゃなかろうかと思案を重ねることの虚無感。あの人は望んで報われない恋をしたがっているようにも想える。決して実ることのない恋に恋をすることで誰も踏み込めないようにと柵を張り巡らせ、確保された小さな空間で安堵しているように見えてしまうのだ。云い還れば一種の防波堤のような それ。受け入れるだけ受け入れて、拒絶の出来ないあの人に付け入ろうとする輩に対する境界線を自ら作り出すことで『近藤勲』は誰もが望む『近藤勲』であれる。あながち間違いではないであろう推測に根拠はないがそう感じしてしまえるほどに長い時間あの人だけを見続けてきたのだという無意味な確信の元、些細な言動にまで見逃すものかと瞳を凝らし細胞単位まで『近藤勲』を解体しようとする自分の執着の深さに嫌気もさす。(それでも『近藤勲』を見逃すことは出来ない。自由と共に生きるあの人は、檻の中に閉じ込めようが手足を引き千切って動きを封じようが誰のものにもならない人だからだ。)情をいくら背負い込もうが決してあの人は自分だけのものにはならない。理屈が分かれば悩みはしないというが理屈が分かっても理性で止められないのなら無意味だ。情を、衝動を制御出来るのならはじめから誰もがいらぬ苦労なんぞを背負う必要性もない だろうに。
あの人の恋はいつも勘違いから始まっている。ならば、友情という名の勘違いに一体いつ気づくのか。鈍いようでいて鋭く寛容でありながら繊細であるあの人は、人の情をいとも容易く読み取ることに長けておりもしかしなくともとっくの昔から自分の情に気づいているからこそ勘違いな恋に想いを馳せて追撃をかわそうとしているのかもしれないと思案することのジレンマは、どこまでもあの人という名の深みに堕ちていく理由を形作るばかりで一向に救われようがない。それでも俺は愚かな恋をしている。そんな『近藤勲』を誰よりも 愛しているのだ。
とある男の 告白(20100122)
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