価値観を崩壊させたい。積み重ねた愛しさを喪失させたい。蓄積された情を破壊したい。けれども 全身を恋しさで染め上げるこの愛を捨てることなど出来やしない。懸け離れすぎた願いと望みがいとも簡単に土方の理性を焼き尽くすしては新たなる欲を生み出そうとする。それを肌で痛感するたびに、土方は人間とは一体どこまで貪欲になれるのだろうかと、執着の終わりとは一体何処にあるのだろうかと思案するのだがいつだって明確な答えなど存在しない。答えが存在しないからそれを求めて躍起になる。悪戯に増徴させては後悔にさい悩まされそれでも日が沈み打ち上げられる夜を慈しむように考える。その思考自体が既に無駄であることを意地でも認めたくはない。認める行為は自分で自分を肯定し甘受する過程と似ている。一度でも認めてしまえば、土方十四郎は土方十四郎という檻から解放され獣のように肉片を喰い千切り骨さえ残さずに近藤を喰らいつくすだろう。狂っていると嘲る声が聞こえるが自分の性を肯定するその非難さえ心地いいのだから救われない。瞼の奥に鮮明にこびり付いた狂喜の宴が不変的である限り、決して犯してはならない過ちが未来が選択肢として存在している。
近藤を想い近藤の為に生かされているというアイアンディティは土方十四郎を構成する全てであると断言しても過言ではない。なのに、抱えきれないまでに膨れ上がった情欲を、近藤の隣で笑いあえる倖福をいつしか不幸へと陥れるこの衝動を根本から消し去るには、共に過ごした時間が共に築いた時間があまりにも長すぎてしまったが故に簡単に失うことなど出来やしないのだ。だから、近藤に囚われ続け無謀にも近藤を捕らえようとする薄ら恐ろしい執着を腹の底に抱えたまま土方は日毎呼吸を繰り返している。まるで、人としての機能を保つための三大欲求に当然のようにプラスされる近藤勲への愛憎は、細胞が死滅して新たなる細胞を生み出す循環の如く土方十四郎という人間の摂理に自然に組み込まれている。故に、いくら願おうが祈ろうが土方十四郎が土方十四郎である限り何一つ解決などしないのである。今日もまた近藤を『守る』為の名目で抱え込むにはあまりにも不自然であり不必要である感情を土方は綺麗に抱え込んでいる。消し去りたいと願いつつも大切に懐にしまいこんで愛でようと躍起する相反する二つの情動を、土方十四郎という檻はオブラートに包み込み隠してしまうのだろう。知らないままでいて欲しい。汚れきった妄執は獣を飼いならす自分や沖田はさぞ似合いだろうが清廉潔白を地でいく近藤にはあまりにも不似合いであるのだから。それでも。それでも だ。消えてしまえばいいと願いつつそれでも望みが消える日なんて訪れることなど土方十四郎の名を背負い続ける限り天変地異が起ころうがありえないのだ。
衝動という妄執は 何塵ですか(20100211)
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